分子クラスターの構造

 分子クラスターの研究では、クラスター構造 ―分子クラスターを構成している分子がどのような位置関係で結びついてるか― を知ることが非常に重要になります。私たちの研究室では、主に赤外分光による分子クラスターの構造解明を行っています。赤外分光は、赤外光により分子内の原子核を振動させ、分子中の結合の長さや角度の大きさ、結合の強さについての情報を得る手法です。分子が分子クラスターを形成すると、分子の結合は分子が単独で存在する時とはわずかに変化します。赤外分光は、これらの微小な変化を鋭敏に捉えることができます。そのため、赤外分光により分子クラスター中で分子がどのような配置になっているかを明確に知ることができます。

 しかし、分子クラスターの濃度は極めて低いため、FTIR分光のような直接吸収分光は感度の点で容易ではありません。そこで、私たちは複数のレーザー光を用いた二重共鳴法と呼ばれる方法を利用しています。

 

二重共鳴赤外分光

 超音速ジェット冷却された分子や分子クラスターの赤外吸収による赤外光の強度変化はきわめてわずかなため、赤外光の吸収を他の物理量の変化に変換して検出する必要があります。そのために、占有数(ポピュレーション) ―ある量子準位にある分子や分子クラスターの数― の変化を利用します。

 まず、IR-UV-UV赤外分光法について説明します。

 第1の紫外レーザー(νexc)で電子基底状態の無振動準位にある分子クラスターを電子励起状態に光励起し、続けて第2の紫外レーザー(νion)を照射してイオン化します。このイオンを質量分析器で質量選別してイオン電流として検出しておきます。この時のイオン電流の大きさは、電子基底状態の無振動準位にあった分子クラスターのポピュレーションに比例します。

 この状態で、第1の紫外レーザーを照射する50 nsほど前に波長可変赤外レーザー(νIR)を照射して、波長を掃引します。赤外レーザーの光子エネルギーがクラスターの振動準位に共鳴すると、分子クラスターは振動励起され、その後、緩和、解離します。すると、電子基底状態の無振動準位にある分子クラスターのポピュレーションが減るため、その後に紫外レーザーでイオン化される分子クラスターの数が減り、検出しているイオン電流の量が減少します。このため、分子クラスターの赤外吸収を、検出しているイオン電流量の減少として検出することができます。

 この方法はイオンを検出しているので極めて感度が高く、希薄な超音速ジェット中でも比較的容易に赤外スペクトルを測定できます。また、赤外スペクトルだけでなく、可視・紫外スペクトルについても同様の方法で測定できます。

図1 (左) IR-UV-UV法の実験スキーム; (右) 4-methylformanilide–H2Oクラスターの電子基底状態における赤外スペクトル

水分子がN-H基に水素結合した構造と、C=O基に水素結合した構造の二つが存在する。赤外スペクトルの特徴から水分子の結合位置を決定できる。量子力学計算と比較すれば、水分子の詳細な向きも明らかになる。(M. Miyazaki et al., Phys. Chem. Chem. Phys. 24, 73 (2022).)

 

 赤外光を入射するタイミングを変えると電子励起状態やイオン状態、反応中間体の赤外スペクトルを測定することも可能になります。

 赤外レーザー(νIR)を第1の紫外レーザー(νexc)と第2の紫外レーザー(νion)の間に照射すると、UV-IR-UV分光法となります。赤外光が入射されるタイミングが、IR-UV-UVとは異なっていることに注意する必要があります。赤外レーザーの光子エネルギーが電子励起状態の振動準位に共鳴すると、分子クラスターは振動励起され、その後、緩和、解離するので、イオン化される分子クラスターの数が減りイオン電流量が減少します。従って、電子励起状態の赤外スペクトルをイオン電流量の減少として検出することが可能となります。UV-IR-UV分光法の場合、電子励起状態(S1状態)のポピュレーションの変化により、電子励起状態の赤外吸収を検出しています。

 励起状態で反応が生じる分子クラスターの場合、第1の紫外レーザーでクラスターを光励起して反応を開始させ、第2の紫外レーザーで最終反応生成物をイオン化して検出することができます。この状態で第2の紫外レーザーを照射する前に波長可変赤外レーザーを照射すれば、反応中間体の赤外スペクトルが測定できることになります。

図2 (左) UV- IR-UV法の実験スキーム; (右) 4-methylformanilide–H2Oクラスターの電子励起状態における赤外スペクトル

電子励起状態に光励起されても、水分子はN-H基とC=O基に結合した構造を保つことが赤外スペクトルの特徴からわかる。(M. Miyazaki et al., Phys. Chem. Chem. Phys. 24, 73 (2022).)

 

 赤外レーザーを二つの紫外レーザーの後から入射すると、UV-UV-IR分光法となります。この方法では、正イオン状態の分子クラスターの赤外分光を行うことができます。赤外レーザーの光子エネルギーがクラスター正イオンの振動準位に共鳴すると、クラスター正イオンは振動励起され、その後、緩和、解離するので検出している分子クラスター正イオンの数が減少します。UV-UV-IR分光法の場合、正イオン状態(D0状態)のポピュレーションの変化により、正イオン状態の赤外吸収を検出しています。一方、壊れて出現するフラグメントイオンのイオン電流量を観測していると、そのイオン電流量は増加します。そのため、クラスター正イオンの赤外スペクトルをイオン電流量の増加としても観測できます。

 ただし、赤外レーザーの光子エネルギーでクラスター正イオンが解離しない場合には、この測定法では赤外吸収が起きたかどうか検出することができません。その場合には、異なる方法が必要となります。

図3 (左) UV-UV-IR法の実験スキーム; (右) 4-methylformanilide–H2Oクラスターの正イオン状態における赤外スペクトル

図1,2に示した4-methylformanilide–H2Oクラスターを光イオン化すると、中性状態の構造によらず、水分子がN-H基に水素結合した構造だけが存在する。二つの赤外スペクトルの特徴が一致することから、一つの構造だけが存在することがわかる。(M. Miyazaki et al., Phys. Chem. Chem. Phys. 24, 73 (2022).)

 

量子化学計算

 測定した赤外スペクトルの解析を行うためには、まず経験的な方法により考えることになります。しかし現在では、コンピューターにより分子クラスターの性質をSchrödinger方程式から直接計算することが可能になっています。そこで私たちの研究室では、分子クラスターの構造や赤外スペクトルの量子化学計算を用いた理論研究も並行して行っています。

 量子化学計算を行うことで実際の分子クラスターの具体的イメージを持つことができます。また、経験則だけでは困難な、複雑な分光スペクトルの帰属や解釈が可能になります。

 一方で、目に入るイメージが強すぎて解釈が誘導されることもあるため、理論についての正しい理解とその限界の認識も非常に重要です。

図4 5-Hydroxyindole–H2Oクラスターの電子基底状態における最適化構造と理論・実測赤外スペクトルの比較 (CAM-B3LYP / cc-pVTZ with GD3BJ; scaling factor 0.95)

OH型、NH型のクラスターは超音速ジェット中に形成されるが、π型の構造は理論計算には見出されるにもかかわらず実験的には観測されない。これは、OH基、NH基との水素結合が強いため、π型の構造は超音速ジェット冷却中にOH型、NH型へ変わってしまうためと考えられる。なお、この図ではOH基の配座がsyn型の物だけを示しているが、anti型についても同様の構造が存在し、syn型よりも安定である。

理論赤外スペクトルは良く実測を再現するが、syn-OHの水素結合OH伸縮振動(νOHHB)の低波数シフトは過大評価されている。

(M. Miyazaki et al., Phys. Chem. Chem. Phys. 20, 3079 (2018).)