分子クラスターの反応とダイナミクス

 化学変化の最中には、結合の長さや分子の間の距離が変化して行きます。そのため、分子の間の静的な構造だけでなく、それらの間の変化がどのように生じるかを明らかにすることも必要になります。私たちの研究室では、光励起により分子クラスターに生じる変化を追跡し、化学変化の進行に果たす分子間相互作用の役割の解明にも挑戦しています。

 化学変化を起こすには、分子クラスターのクラスターサイズを変える、光によりエネルギーを与える、などの方法があります。いずれにしても、生成物の構造をはっきりさせることが、分子クラスターに生じる化学変化を研究するための基本となります。

 

反応

 クラスターサイズ制御による化学変化の例として、フェノール‐アンモニアクラスターにおけるプロトン移動反応の例を示します。これは、酸と塩基による酸解離のモデルとなるものです。どんな酸でも、酸分子一つだけでは酸解離(プロトンの放出)は起こりません。周りに溶媒分子(塩基)があることで酸解離が可能になります。その時、いったいいくつの塩基分子があればよいのでしょうか。分子クラスターを用いると、このような基本的な問いについて取り組むことができます。

図1 フェノール‐アンモニアクラスターにおけるプロトン移動反応のクラスターサイズ依存性

NH3分子の数が6~8個を超えると、フェノールのOH基からからアンモニア側へプロトンが移動する酸解離が生じることが、フェノレートイオン(C6H5O)の赤外吸収の出現によって明らかとなった。(M. Miyazaki et al., J. Phys. Chem. A 117, 1522 (2013).)

 

 光エネルギーによる分子間構造変化の例として、4-methylformanilide–H2Oクラスターの光イオン化誘起水和サイト移動があります。これは、溶媒分子の溶質分子周辺における運動を研究するモデルとなります。電子基底状態と正イオン状態の赤外スペクトルを比較すると、光イオン化によってクラスター構造にどのような変化が起きるかを知ることができます。溶液を直接調べる場合には、あまりに多くの溶媒分子が存在するため、個別の溶媒分子の運動を捉えることは極めて難しいですが、分子クラスターを用いると特定の溶媒分子の運動について明確な情報を得ることができます。

図2 4-methylformanilide–H2Oクラスターの赤外スペクトルの比較

中性状態と正イオン状態の赤外スペクトルを比較すると、水素結合がOHからNHへと変化することから、光イオン化により水分子がC=O基からN-H基へ移動することがわかる。(M. Miyazaki et al., Phys. Chem. Chem. Phys. 24, 73 (2022).)

 

ダイナミクス

 光励起により変化が生じる場合には、どのような経路を通って、どれぐらいの速さで進行するのかを実際に追跡することで、反応についてのより深い理解を得ることができます。

 分子クラスターの動的な変化を観測する方法の一つとして、時間分解赤外分光法があります。この方法では、まず紫外レーザーで反応を起こし、その後の変化を時々刻々、赤外分光により追跡します。これにより、化学反応が進行する様子を結合の変化に基づいて追跡することができます。分子クラスターの光励起反応に対しては、UV-IR-UV、またはUV-UV-IR分光法において、IRレーザーの入射タイミング(遅延時間: Δt)を変えながら赤外スペクトルを順次測定して行く時間分解赤外分光を利用することで実現することができます。

 分子クラスターの構造変化は、一般にピコ秒(10–12 s)からナノ秒(10–9 s)程度で起こります。この時間は、1秒間に地球を約7周半(~30万キロメートル:~3×108 m)できる光が、0.3 mmから30 cm進む時間に対応します。このような短い時間で起きる現象をリアルタイムで追跡するためには、これよりも短い時間しか光らないレーザー光を用いる必要があります。ストロボ写真をイメージしてもらえばよいのですが、ストロボが光る時間は現象の起きる速度よりも十分に短くないと像がぼやけてしまいます。私たちは、数ピコ秒あるいは数ナノ秒だけ光るレーザーを用いて、分子クラスターに生じる現象をリアルタイムに追跡し、そのダイナミクスのメカニズムの解明に挑戦しています。

図3 (左) 4-methylformanilide–H2Oクラスターの光イオン化における時間分解赤外スペクトル; (右) 光イオン化による水分子の水和サイト移動の模式図

水分子がC=O基からN-H基へ移動する様子が、赤外スペクトルの時間変化として捉えられている。赤外スペクトルの時間変化を詳しく解析すると、水分子の移動には約5 psかかることがわかる。(M. Miyazaki et al., Phys. Chem. Chem. Phys. 24, 73 (2022).)

 

図4 光イオン化による水分子の水和サイト移動に要する時間の比較

色々な分子クラスターについて、水分子の移動にかかる時間を時間分解赤外分光法で調べた結果、水分子の移動時間は、溶質‐溶媒の組み合わせによって1000倍以上も変わることを明らかにした。個別の溶質‐溶媒の分子間相互作用を詳細に理解する重要性を示している。(1)M. Miyazaki et al., Phys. Chem. Chem. Phys. 24, 73 (2022); 2)M. Miyazaki et al., Phys. Chem. Chem. Phys. 17, 29969 (2015); 3)M. Miyazaki et al., Phys. Chem. Chem. Phys. 20, 3079 (2018).)