分子間相互作用
我々の世界はほぼすべて化学物質でできていますが、原子・分子がバラバラに存在していては我々が目にする物質にはなりません。原子・分子が互いに集合しうまく結びつくことで初めて、我々は存在できます。
この時、原子・分子を集合させる力を分子間力(分子間相互作用とも)と言います。我々の体がこの形を持つことも、その中で高度な機能を発揮する分子認識システムが働くことも、すべて分子間力を制御することで成り立っています。DNAの核酸塩基対(A-T、G-Cペア)や二重螺旋鎖の形成、タンパク質の立体構造の制御、カルシウムによる骨格の形成など、すべて多くの分子が分子間力によって凝集することで成立しています。さらに、それらの分子間力が適度に変化することで、化学反応が定常的に維持されいます。
もっと基本的な反応においても、溶質分子と溶媒分子の間に働く分子間力は化学反応のメカニズムに大きな影響を与えることが知られています。砂糖や塩が水に溶けること、SN2反応の反応速度がプロトン性溶媒と非プロトン性溶媒で大きく変わることなどは、その一例です。これらの変化では、静電力やvan der Waals相互作用と水素結合の競合により、溶質‐溶媒分子の間の相互作用、結合構造が時々刻々と変化して行きます。これらの相互作用のバランスのわずかな変化により、反応性、反応速度、生成物が変わります。
現在の化学は、これらの微妙な力の均衡を制御することで、多種多様な化学物質の合成や機能の発現を可能にして来ました。しかし、通常の状態では膨大な数の分子が存在するため、分子間相互作用の本質を分子レベルで理解するのは、現在でもとても難しい課題です。
私たちは、この課題を分子クラスターを用いることで研究しています。
図1 分子と分子間力の関係
物質は、分子が分子間力により互いに集合して形成されている。分子の間には様々な分子間力が複雑に作用し合っており、物質の性質は分子の性質と分子間力のバランスで決まる。そのため、分子の性質だけでなく、分子間力についての理解が不可欠である。
分子クラスター
分子クラスターは少数の分子が集まった分子集合体です。いくつの分子が集合してクラスターを作っているかは、分子クラスターのサイズと呼ばれ、分子クラスターを考える上で最も基本的なパラメーターとなります。1個は分子そのものですので通常除外し、2個以上の場合が分子クラスターになります。上限に関しては明確な境界は特になく、数千から数万といった大きなサイズのクラスターも扱われます。
分子クラスターを利用すると、クラスターサイズを2、3、4 …と増やして行くことで、一つの分子から始まって、徐々に実際の物質へと近付いて行くことが可能になります。われわれの目にする物質の姿、性質が、一つ一つの小さな分子の集合からどのようにして現れて来るかについての直接的アプローチとなります。
そのほか、特定のサイズの時にだけ特異的に興味深い性質や機能が発現することもあります。このような性質は、酵素における反応中心などで実際に重要な役割を果たしていますが、分子クラスターを用いた新たな触媒の開発などへの応用も期待されています。
図2 水分子のクラスターの例
小さいサイズでは環状になることが知られている。クラスターサイズが大きくなると水へ漸近すると考えることができる。
分子クラスターのもう一つの特徴は、少数の分子だけを取り出すことで、本質的に重要な部分に注目できることです。実際の物質ではあまりに多くの分子があるため、関係のない分子の影響をいかに除外するかが問題になります。分子クラスターでは不要な部分がはじめから存在しないため、注目する部分だけを見ることができます。化学の教科書にある分子や反応機構の絵は、これまでに確立した理解を元に必要な部分だけを描いたものですが、実際にそういう環境を作ることができるのが分子クラスターの特徴です。
図3 凝縮相と分子クラスターとの関係
分子クラスターは、溶質近傍の局所環境を抜き出してきた部分系とみなすこともできる。溶質分子と直接関係しない溶媒分子の影響を受けることなく、本質的に重要な溶質‐溶媒相互作用に注目することができる。
超音速ジェット法とレーザー分光
分子クラスターは、試料気体を貴ガスと一緒に真空中に直径0.5 mmほどのピンホールから吹き出した超音速ジェット噴流中に生成することができます。噴出されたガスが超音速の速度を持っているため、超音速ジェット法と呼ばれています。超音速ジェット噴流中では、ガスの温度は10 K程度と極めて低くなります。このような低温にもかかわらず、超音速ジェット噴流中の分子や分子クラスターは固体にはならず気体のままです。また、互いに衝突することもなくなり、一つ一つの分子や分子クラスターが孤立した状態になります。このような状態が実現されるのは、超音速ジェット法が非平衡状態を利用しているためです。
図4 超音速ジェットの模式図
超音速ジェットは、試料分子(赤丸)の蒸気を貴ガス(主にヘリウム:青丸)と共に真空へピンホールから噴き出すことで実現される。分子が複数個集合した分子クラスターも、超音速ジェット中に形成される。
超音速ジェット中では、分子や分子クラスターは、温度が10 K程度と極めて低いうえに、一つ一つの分子が孤立した状態になります。これにより、熱および分子衝突による影響を極限まで抑えることができます。そのため、単一の分子や分子クラスター固有の性質を精密に測定することができます。例として、ベンゼン分子の電子スペクトルを示しました。
図5 ベンゼンの電子スペクトルの測定環境における変化
超音速ジェット法とレーザー分光を用いると液体や気体では観測できない多数の吸収帯が観測できる。これらを解析することで、分子や分子クラスターの性質、分子間相互作用の影響について詳細に研究することができる。
一方、超音速ジェット法では、様々なサイズの分子クラスターが同時に生成されます。そのため、目的とする分子クラスターだけを選んで観測する必要があります。また、生成される分子クラスターの濃度は、10-15 ~ 10-9 mol/L程度と極めて低くなります。
そのため、分子クラスターの研究では、分子クラスターの質量を量る質量分析法、分子クラスターの光吸収を高感度かつ精密に測るレーザー分光法を組み合わせた計測手法を利用する必要があります。